堀江敏幸 「砂売りが通る」
2006年 05月 12日
『熊の敷石』に収録されていた「砂売りが通る」も印象的だった。
中でも次の文章。
気配りだとか思いやりだとか、感情と行動のはざまの領域をそれらしい言葉でくくるのは、結局なんらかの規範の内部にとどまる八方美人的な姿勢だ。無意識の行動を誉められるのはありがたく、また励みにもなるが、自分がしてもらいたいことをしたまでですなどと人前で平然と口走るような輩に出くわすたびに、私はしばしば黙り込んでしまう。自分がしてもらいたいことを他人にしてあげるという理屈は、考えようによっては謙虚で、奥ゆかしくて、好意を感じさせるものだが、それはなかば自慰的な行いでもあるのだ。自分にしてほしくないことを他人にしないというのも一種のエゴイスムなのだから。
「自分にしてほしくないことを他人にしない」というのは、私の中では一番根幹にあるものではないかと思う。だけど思えば相手に何かをするときは、自分がしてもらいたいことというより、相手がしてもらいたいことは何かを考えるかもしれない・・・。
とにかく、自分に染み付いている考え方をひっくり返されたような気がして驚いた。
私が異文化と接することもなく、他者との差異にそれほど突き当たることもなく生きてきたせいかもしれない。
「感情と行動のはざまの領域をそれらしい言葉でくくる」って、そんなことばかり考えて生きてきたような気がするな・・・。
いろんなことがある度に、「自分がされたくないことはしない」ということを絶対のルールのように考えるけれど、それだけでは足りないということなんだろう。自分がされたくないこと、人がされたくないこと、自分がして欲しいこと、人がして欲しいこと。そういうのを色々な角度からちゃんと考えていかなければ。ただ言葉の上っ面だけ捉えていたんじゃダメってことなのだろうな。
こういうことを考えるとき、「耕す」というイメージが浮かぶ。
固くなった地表を掘り起こして、根が張り、水がしみるよう、土を柔らかくする。
言葉を、頭ん中を、耕す。
「耕す」は「豊かさ」につながる。
その逆は、「貧しさ」。
毎日、土いじりをしているせいかな??
上手く書けないけれど、『熊の敷石』は、世界の一部を耕してゆくような、そんな作品だと思われたのでした。
中でも次の文章。
気配りだとか思いやりだとか、感情と行動のはざまの領域をそれらしい言葉でくくるのは、結局なんらかの規範の内部にとどまる八方美人的な姿勢だ。無意識の行動を誉められるのはありがたく、また励みにもなるが、自分がしてもらいたいことをしたまでですなどと人前で平然と口走るような輩に出くわすたびに、私はしばしば黙り込んでしまう。自分がしてもらいたいことを他人にしてあげるという理屈は、考えようによっては謙虚で、奥ゆかしくて、好意を感じさせるものだが、それはなかば自慰的な行いでもあるのだ。自分にしてほしくないことを他人にしないというのも一種のエゴイスムなのだから。
「自分にしてほしくないことを他人にしない」というのは、私の中では一番根幹にあるものではないかと思う。だけど思えば相手に何かをするときは、自分がしてもらいたいことというより、相手がしてもらいたいことは何かを考えるかもしれない・・・。
とにかく、自分に染み付いている考え方をひっくり返されたような気がして驚いた。
私が異文化と接することもなく、他者との差異にそれほど突き当たることもなく生きてきたせいかもしれない。
「感情と行動のはざまの領域をそれらしい言葉でくくる」って、そんなことばかり考えて生きてきたような気がするな・・・。
いろんなことがある度に、「自分がされたくないことはしない」ということを絶対のルールのように考えるけれど、それだけでは足りないということなんだろう。自分がされたくないこと、人がされたくないこと、自分がして欲しいこと、人がして欲しいこと。そういうのを色々な角度からちゃんと考えていかなければ。ただ言葉の上っ面だけ捉えていたんじゃダメってことなのだろうな。
こういうことを考えるとき、「耕す」というイメージが浮かぶ。
固くなった地表を掘り起こして、根が張り、水がしみるよう、土を柔らかくする。
言葉を、頭ん中を、耕す。
「耕す」は「豊かさ」につながる。
その逆は、「貧しさ」。
毎日、土いじりをしているせいかな??
上手く書けないけれど、『熊の敷石』は、世界の一部を耕してゆくような、そんな作品だと思われたのでした。
by masagonasu
| 2006-05-12 19:26
| 本・漫画